サディスティックメイト《萌樹》

サディスティックメイト特別読み切り小説:萌樹編

かつて神父と呼ばれた男

嘘だと知りながら
誘惑を吐く悪魔に微笑む

嘘だと知りながら
貞操を装う天使に微笑む

本当のボクを知りもせず
甘い仮面に夢を貼り付け
飽くまで貪る亡者の参列

十字架の下に埋めた悲しみ

嘘だと知りながら
ボクはただ、愛し続けたかった

空を遮るものは何もない。
舗装されていない道路は牛が引く荷車で土埃をあげ、吹き抜ける風に小さな竜巻を起こす。少し下った麓にそれなりに小さな村はあるが、人口はさほど多くない。景色だけがいつまでも優しく、絵画のような静けさがこの村のいいところだろう。
形容すれば取り立てて特別なものは何もない。いたって平凡。なだらかな牧草地が続くのどかな農村の中に、その教会はひっそりと建っていた。

「ああ、神父様。あたしは悪魔にとりつかれてしまったのです」

唯一の教会には神父がひとり。
小さな教会の裏には墓地があり、眠る十字架の軍勢はこの美しい田舎町でただひとつ。異様な光景を放っている。

「ああ、神父様。あたしは悪魔にとりつかれてしまったのです」

懺悔に訪れたのは村の娘ではない。
首からかけた十字架を両手で持って膝を折り、祈りを捧げる娘は先日、男と愛の逃避行の末に村に置き去りにされた哀れな女だった。

「なぜ、悪魔にとりつかれたと思うのですか?」

女が繰り返す言葉をただ聞いていただけの男が声を放つ。
透き通るように響き、心地よく胸に残るその声は、女が顔をあげるのに十分な魅力を持っていた。

「ボクに聞かせてください」

「あたしは心に決めた人がいながら、こんな場所まで逃げて来ながら、ああ、いけない女なのです」

「泣かないで、せっかくの可愛い顔が台無しですよ」

そう微笑みかけて腕を伸ばせば、噂を聞きつけた女がとる行動は大抵同じ。
伸ばされた腕にしがみつき、震える声で愛を求める。

「ああ、神父様。あたしは貴方に心を奪われてしまいました。あたしの中の悪魔をどうか鎮めていただきたいのです」

「ボクは奪った記憶はないのですが」と苦笑に歪む表情には目もくれず、女はただ天使のように降り注ぐキスの行為に溺れていた。目を閉じ、夢にまでみた唇が重なるのを待ち、そうして抵抗するまでもなく、喉の奥に流し込まれた液体に眠りにつく。
どさりと、音をたてて女が崩れるのを黒をまとった神父だけが見下ろしていた。

「目が覚めましたか?」

朦朧とする頭で女が目にしたのは黒い檻。悪魔に憑りつかれた結果、求め続けた神父をついに檻に閉じ込めてしまったのかと錯覚した女は、次の瞬間、囚われているのは自分の方だということに気づいて、檻の柵を力任せにつかんだ。

「神父様っ、助けてください」

なぜ自分が檻の中にいるのかわからない。
身に着けていた一切が失われ、全裸で放り込まれた檻に感じるのは冷たい恐怖。

「神父様、お願いします」

唯一、自分を助けてくれるだろう存在を女は呼ぶ。
何度も何度も、柵を揺らしながら狂乱したように女が叫び始めたところで、突然女は声をあげるのをやめた。

「うるさいですよ」

「っ…ぁ…ぅッ」

檻の外から容赦なく差し込まれた腕にノドが締め付けられる。

「ッぁ…しん…ぷさ…っ…ま」

かすれた女の息が爪をたてて、神父の手に赤い線を描く。それでも神父の手が首を絞める力は弱まらない。再度、意識を飛ばしかけたところで、ようやくその手が女の首を解放した。

「っはぁ…はぁ…ッ…ぁ…はぁ」

女は自分の首を守るように手をあてて息が出来る喜びにむせる。ごほごほと単調ではない空気の音が、檻の中から聞こえていた。あきらかな異常。死に直面した女は涙を浮かべたその顔で、神父を見て息をのむ。

「そうして少しいい子にしていましょうか」

神様さえも見惚れるほどの満面の笑み。
人を一人、簡単に殺しかけておきながら平然と向ける笑顔の異常さが、綺麗すぎるほど整った顔立ちのせいで中和される。本能だけが異常を異常として認識しているのだろう。心と脳が訴える情報に、あまりにも差がありすぎて、女は声を出すことを忘れてしまったようだった。

「安心してください。ここはボクの仕事部屋です」

にこりと目線を合わせるようにしゃがんで喋る神父の声が、相変わらず穏やかで心地よく響いてくる。

「し…っ…しごと…部屋?」

「はい。ボクと共に歩む道を選んだキミの愛を信じてみようと思いまして」

この笑顔をもっと違う場面で見ることを望んでいたに違いない。一目で恋に堕ちるほどの魅力的な笑顔。外見、声、雰囲気、何をとっても吸い込まれそうなほど心が魅了されて奪われる。
それなのに、這い上がるほどの恐怖はなぜだろう。
女はカタカタと震えだす体の意味を探ろうと、視線を神父から外野へ向けて、今度こそ確実に死を悟った。

「悪魔を追い出すのは簡単ではありません」

「っ…あ…ッちが…ぅ」

「ボクはただの人間ですので、よく失敗してしまうのですが。幸福な未来のためにも、一緒にがんばりましょう」

「~~ぁッ…ぅ…たすけ…て」

「心配しなくても、この格好にふさわしく。天国には逝かせてあげます」

なぜ彼を神父だと思ったのか、女の記憶を今はもう知ることは出来ない。
教会の地下に設けられた空間は、その中でどれほど残酷で幸福な営みが繰り返されたとしても、誰も気付かないまま終わりを告げる。
数日後か、数か月後か。不定期に増えていく墓地の数は、明らかに村人の数と釣り合わない。

「彼女たちは悪魔に殺されたのです」

火炙りの刑に処されることになった神父は生前、裁判官に向かって、そう証言した。

「ええ、何度も彼女たちの中から悪魔を追い出そうと努力しました。ボクを愛していると言ってくれた女性です。共に生きていける道を探して、あらゆる手を尽くすのは当然でしょう?」

神様さえも見惚れるほどの綺麗な顔で、神父の服を着た男は告げる。

「でも残念なことですが、彼女たちはみな身体が耐えきれずに死んでいくのです」

皮肉にも若い女性ばかりが犠牲になる異様さに、最初に気がついたのは女と逃避行を続けた末、たどりついた村で女に振られた男だった。
神への誓いを二人で静かにあげようと訪れた教会で、女は悪魔に心を奪われたに違いない。男もまさかそこで自分が婚約者を捨て去る原因となる美しい男がいるとは思いもしなかっただろう。未練を断ち切れなかった男は村に戻り、消えた彼女の行方を追って、教会の地下にある絶望の檻を見つけてしまった。
こうして哀れな一人の男が発見した狂気をきっかけに、神父は詐欺師の汚名をきせられて処刑台へと運ばれる。

「ボクは絶望しています。ボクの愛し方を受け入れてくれない世界に」

放たれた火の中でも、男の綺麗な顔は崩れなかった。
炎さえも凍らせるほどの冷めた瞳で、自分を焦がす赤い色を見つめている。

「神にも悪魔にもボクの愛は重すぎたのでしょう」

どこか落胆したように呟いて。そして、周囲の期待を裏切るように微笑みながら瞳を閉じる。

「永遠にこの愛を受け入れてくれるカナリアがいればいいのに」

まるで眠りにつくように、静かに息を吸ったその体は、ちりちりと焦げ付く炎の腕に抱かれながら消えていく。消えて、消えて、肺が焼ける息苦しさにようやく顔をしかめるというその時になって、なぜか身体が浮遊していく感覚に襲われた。
魂が抜けるのではない。
水面を目指して泳ぐような感覚は、徐々にはっきりと明確になり、自由になった腕を伸ばして掴んだ先で、盛大に息を吐いた。

「だ、大丈夫ですか?」

呼吸が出来る違和感の中で聞こえたのは甘い優しさ。
沈みゆく泉の桟橋でひとり困惑を浮かべるその少女を見つけるのと同時に、焼けた身体が修復されていく異様な感覚。

「キミなのですね」

恍惚に歪み、沸き立つ感情を抑えられない。
それでも次こそは慎重に、今まで以上に丁寧に。
萌樹として名前を与えたその意味を彼女が身をもって知る日まで。
(完)