サディスティックメイト《斎磨》

サディスティックメイト特別読み切り:斎磨編

かつて自分を呪った貴族の話

苦労したものは何もない
生まれながらに与えられた

地位も名誉も財力も
頭脳も容姿も何もかも

誰もが羨み疎んだ生活
欠けた心に蓋をして
効率よく謳歌する

歪んだ性癖だけが
満たされない唯一

全身全霊を捧げるほどに
俺はただ、愛し続けたかった

雨に濡れた石畳の路面をその馬車は通過していく。
目的地は決まっているのか、高級な家が立ち並ぶ敷地に向かって馬車は迷いなく進んでいく。時刻はまもなく朝になろうとする頃。街灯の明かりがちょうど消え、湿気は周囲を白い靄で包もうとしていた。

「また頼む」

馬車から降りた男は、短い言葉で馬の手綱を握る男に硬貨を握らせる。
まだ人々が寝静まる街の一角。白い靄に包まれていなくても、誰も彼らの存在を視界にいれなかっただろう。カッポカッポと軽い音をたてながら、馬車はまるで何事もなかったかのように姿を消していく。
男はそれを少し眺めて見送ったあとで、自宅で体を休めようと向きを変えた瞬間に、背後からの襲撃に気が付いた。

「ごほっ」

背中から差し込まれた鋭利な刃が身体を突き抜けて、自分の胸元の少し下あたりから飛び出ている。
それを認識した瞬間、引き抜かれた衝動で男は血を吐きながら膝をついた。静かに降る雨の音が、白く染まる靄の色が、男が崩れる音をかき消したのか、その事件に気づく者はやはりいない。

「あなたが、あっあなたがいけないんですのよ!」

聞きなれた女の声。

「あんな…っ…あんなおぞましい…あなたなんて死んでしまえばいいのよ」

半狂乱で叫ぶ女に視線を送って、その両手に握られた刃物を見て理解する。ああ、自分は婚約者に刺されたのだと。けれどそれに言い返す声を吐き出すことは、崩れ落ちた膝には許してもらえないらしい。
とめどなく流れ続ける赤い液体が、咄嗟に抑えた手の合間をこぼれるように服を重たく染めていく。痛いだとか、熱いだとか、ありふれた感想を述べるよりも先に、乾いていく感覚が意識を奪おうと迫ってくる。

「旦那様!?」

この声は、そろそろ主人が帰ってくる頃だろうと玄関をのぞいた執事のものに違いない。

「これはいったい、旦那様。ああ、どうしてこんなことに。ああどうしよう、どうしたら、旦那様」

「…っ…騒ぐな」

状態ははっきりと認識していた。地面まで赤が流れ、徐々に意識が奪われていくのを、どこか近くでもう一人の自分が見つめているみたいだった。内心、はらわたが煮えくり返っていたのを覚えている。自分を刺した婚約者にでも、狼狽えて何もできない執事にでもない。他の誰でもなく、こういう事態を招いた自分の愚かさが憎くて憎くてたまらなかった。

「今夜も貴殿は一段と美しい」

数時間前、男は仮面をつけた男と対話しながら足を組んで優雅にワインをたしなんでいた。
均整の取れた裸体に柔らかなガウンを羽織り、質のいいソファーに腰かけてに社交界に応じる。言葉にすれば上品な世界が垣間見えそうだが、目に映るすべてが表すとおり、普通ではない気配が部屋には漂っている。

「先ほどはわしの犬が粗相をしたようで申し訳ない」

「大したことではない」

「さすが、貴殿は相変わらず懐が広い。あれはまだ躾がなっていない仔犬でして。今夜で少しは学ぶとよいのですが」

笑い声に傾けられたワイングラスは、その中で高級なビロードを混ぜて口にした男たちの中に消えていく。
室内には二人のほかに十人ほどの男たち。誰もが素性を隠すように仮面をつけ、惜しげもなく裸体をさらしていた。年齢は特に関係ない。
男のように均整のとれた美しい裸体を持つものがいれば、男と対話しにきた相手のように突き出た丸い腹をした男もいる。特に鍛えられていない痩せた男もいれば、濃く生えた毛を自慢するような男も、鍛えあげた筋肉を見せつける男もいる。千差万別。共通していることといえばひとつだけ。

「ところで前回お連れだった犬はどうしたのですかな?」

「あの犬は別の飼い主のところで可愛がられることになった」

「どうりで、今夜は仔犬も連れていらっしゃらないわけだ」

「なかなか質のよい犬が見つからなくてな」

「貴殿であれば尻尾を振ってついて来るでしょうに。なんなら、良い犬を扱う店を紹介しますぞ」

その視線の先には、首輪のついた女がひとり。録音された静かな音楽が流れる中で、複数の腕に撫でまわされながら尻尾をふり、与えられる餌に喜びの声をあげている。
時折、男の反応をうかがうように視線を向け。目が合うと赤い顔をして他の男の愛撫に埋もれていく。その様子に、共にグラスを傾けていた男は舌で唇を舐めて、品定めを行うような目つきをしていた。

「貴殿のように富も名声も地位もある飼い主に見初められる犬はさぞ幸せでしょうな」

「世辞も過ぎると霞むぞ」

「ははは、これはいっぽん取られました。そういえば、聞きましたぞ」

女の鳴き声が激しく変わっていくのを横目に、乗り出した男の腹は柔らかく弾む。

「まもなくご結婚なさるとか」

「喜ばしいものか。生まれながらに親が決めた相手だ」

「貴殿の手腕にかければ大人しいものでしょう」

「金にしか目のない性根の腐った犬を躾ける趣味はない」

「またまたご謙遜を。なかなかに美人と聞きましたぞ。おっと、これ以上はここでは禁句でしたな」

さすがに狭い世界だと、男は声で答える代わりに微笑みを吐き出すことでその答えとした。

「俺の本当に得たいものを得るには狭すぎる」

「なにか言いましたかな?」

「いや、独り言だ」

仮面で隠しているとはいえ、本当の意味で素性を隠すことはできない。表立って自分たちの性癖が異常だとわかっているからこそ、内密に開催されている社交場でこれ以上の会話は何の実りももたらさない。
それをわかっているからか、相手の男はグラスに残った液体をいっきにはおると、会話に興味をなくしたように立ち上がる。

「まあ、今夜は俗世を忘れて享楽にふけりましょうぞ。月に一度の愉しみですからな。どれ、わしも仔犬を可愛がってきますか」

品定めは存分に済んだのだろう。そそり立ったものを隠しもせずに、首輪のついた女の方へ歩いていく。
今夜もいつもと変わらない。先月も先々月も、変わるとすれば互いに連れている犬が変わる程度で、特に何の変哲もなく社交界は開催され、問題なく終わりを告げた。
はずだった。

「そんな…っ…旦那様が」

いつか死ぬことはわかっていたが、それが身内から突然の襲撃によるものだとは少し想定外だった。
その自分の甘さが自由の利かない体の中で悔やまれて仕方がない。
与えられた仕事はそれなりに出来ても、万能ではない執事を雇っているのには理由がある。狭い世界では噂は煙に巻く程度の小さなもので済まさなければならない。支障のない大きさに収めるには、あまり勘の良くない執事くらいでちょうどいい。そう判断した先代の決めたことだった。
男自身は有能な執事を求めていたが、先代が残した使用人。早々に解雇するのもためらわれた結果、今がある。
刺されて血を流す主人に狼狽え、介抱もできない。医者を呼ぶ機転も回らず、結婚相手を刺した女まで逃がす始末。男はようやくベッドに運ばれ、医者が来るまでの間に自分の詰めの甘さを呪っていた。

「俺もまだまだということか」

どこで間違ったのか。やり直せるなら、たったふたつ。
執事は有能に限り、女は躾けるに限る。

「目覚めたら処理しよう」

どちらにせよ、この身体では何も出来ないと、男は失せていく血の気を感じながら瞳を閉じる。
目が覚めたら、次に意識がはっきりとしたときには、間違えない道を歩もう。
そう思っていたのに、次に目を開けた時には水面で息を吐き出し、刺された傷が癒えていく異様な感覚が自分を襲っていた。

「お前は誰だ。俺に何をした」

目の前にいたのは女が一人と、男が二人。
咄嗟に掴んだ腕は細く、声は甘く加虐心をそそられる。理解できない状況を把握するよりも先に、男は自分の欲が刺激される感覚に驚いていた。犬はいくらでもいる。たしかにそれは事実だが、手に入れたいと直感的に本能が囁く感覚は初めてで、掴んだ手を離したくないと思っている自分に戸惑いすら覚えてくる。
そうして過ぎていく時間の中で、男は自分が死んだのだと理解した。けれど悲しみはどこにもなかった。ちょうどやり直したいと思っていたところだったのだから、むしろ好都合なのかもしれない。
斎磨と新しい名前を持って歩む道。次こそは間違えなければいい。幸いにも本当に得たかったものは目の前にあるのだから。
(完)