短編「秋ノ虫夜ノ歌」
概要
2024年9月に刊行された一筆献納様主催の「おとがたり」参加作品となります。
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作品名
作品名:秋ノ虫夜ノ歌
公開日:2024/02/25
ジャンル:現代恋愛
文字数:約4990字
読了時間:約5分
タグ:現代/日常/オノマトペ/男女
本編「秋ノ虫夜ノ歌」
りーん、りーん。りりーん、りーん。
彼岸花の赤が薄れ、金木犀の香りが満ちるまでのあいだ。
とても短い期間、過ぎ去る季節の狭間。
夏の暑さに負けて、刈り忘れた庭の草むらのなかで、それは秋の到来を告げていた。
りーん、りーん。りりーん、りーん。
静かな鳴き声がひとつ。合唱ではなく独唱。
姿の見えない音楽家が奏でる可憐な音色は、心に懐かしさを連れてくる。
「……虫が鳴いている…チンチロ…チンチロ…チンチロ…チーン……」
ここにも心に懐かしさを得た独唱者がいたかと、小さく口ずさむ彼女の歌声に、目を閉じて聞き入ってみる。それなのに、急に照れてしまったのか、布団のないコタツをはさんで、すぐそこにある鼻唄はピタリと止まった。
代わりに「思ったんだけどさ」と、前触れのない言葉をかけられて目を開ける。
「全然、ちんちろじゃなくない?」
どこか不満そうな顔は、もうかれこれ二時間も酒の入ったグラスを片手にダラダラと怠惰な時間を送っている。ほんのり顔が赤いが、それは酒の効果であって、たった二人きりの室内のせいではない。警戒心をどこへ置き去りにしてきたのか、同年代の男の家に上がり込む彼女に緊張感は皆無といえる。
一年前と同じ光景になりつつあるこの部屋で、前振りなく話しかけられるのもいつものこと。無防備に傾けられた首で、一年前から少し伸びた彼女の柔らかな髪が踊っている。
「おーい。あれ、ねぇ、酔ってる?」
「全然」
「だよね。あっくん、お酒強いもんね」
にひひと、無邪気に笑う顔があどけなくて、室内に招いた二時間前の自分を少しだけ呪う。
友達と呼ぶには距離が近くて、恋人と呼ぶには距離が遠い。安全な酒飲み仲間としての認識が、彼女を独占できる口実なことは、告げずに嚥下し続けてきた過去が証明している。
「チンチロリンは松虫の鳴き声で、今聞こえているのはコオロギの鳴き声だから、違ってていいんだよ」
見つめているとボロが出そうな気がして、手元の酒をあおれば、溶けきった氷の残骸が口に入って、理性を起こしてくれる。冷たい氷は高まる熱を下げるのにちょうどいい。
それに身を任せて「はぁ」と自然な息を吐いたタイミングで、「え、松虫ってなに?」と問いかけが重なった。
「さっきキミが聞いたんでしょ。ちんちろじゃなくない? って」
淡々と疑問に応じれば、少し感動したような彼女が「ちんちろは松虫かぁ」と再度、口にした。
「わたし、ずっと、秋虫って思ってた」
「秋の歌だから?」
「そう。わたしの中で秋の虫っていえば、あっくんの家で聞くりーんりーんなんだもん。松虫っていう正式な虫がいたとは、まだまだ知らないことばっかりだぁ」
悪びれもせず、照れたようすもなく、彼女はまたチンチロチンを歌い出す。
ここで「チンチロチンじゃなくて、チンチロリンね」や「ちんちろちーんって、可愛くてボクは好きだけど」などと指摘しようものなら、可愛い虫は歌わなくなるのだろう。それでなくても歌詞を知らない彼女は、先ほどから冒頭ばかりを繰り返して、松虫しか登場しないオリジナルソングに変換している。
「秋の夜長を鳴き通す。ああ、面白い虫のこえ」とはよく言ったものだと、勝手に口角があがるのを隠すために、ひとり、グラスの酒をあおった。
りーん、りーん、りりーん、りーん。
ちんちろ、ちんちろ、ちんちろ、ちーん。
窓の外の独唱が、彼女を追加することで合唱になるが、観客がひとりとは随分と贅沢なリサイタルだと耳を澄ませる。
自然と見上げた空には満月がひとつ。一年で最も輝く月に思えるのは、環境と状況が見せるマジックともいえる。今の時代、満月の明かりが地上に光を差すことなどないはずなのに、自然と空を見上げて「月がきれいだ」と呟きそうになる。
なんとなく、嚥下した酒でその言葉を飲み込んで「日が暮れるのが早くなったね」などと、どこか感傷的な言葉を誘い文句にした二時間前の自分を思い出していた。
りーん、りーん。りりーん、りーん。
秋と呼べる季節は短い。
夏の終わり、冬の始まり。そのどちらにも属さない季節は一瞬で過ぎ去っていく。
「それはさ、あっくんの家の庭で虫が鳴く季節になったってことかな?」
「……そうとも言える」
「じゃ、今夜はあっくんの家で飲むことにしよう」
そう言って、近所のコンビニで酒やつまみを買って、彼女が上がり込んできたのが、随分遠い過去の話に思えてならない。
目の前で、心地よさそうにハミングを刻む彼女と酒。
絶妙な距離感が安心感を与えているのかもしれないが、時計の針は夜の八時を過ぎ、人間の多くが活動を家の中に移したと知るや否や、鳴き始めた虫たちが、今ごろ雑草の隙間で熱烈な愛を交わしあっているのかもしれないと思うと、少しだけ羨ましい気持ちにもなる。
りーん、りーん。りりーん、りーん。
誰を呼ぶ鳴き声なのか。一匹のオスしかいないわけでもないだろうに、妙に気にかかる。
鳴き声がやめば、それはすなわち、番う相手を得たということになるのかもしれない。
一介の人間に、それを覗き見る趣味はないが、口内に広がる悦な刺激に、月見の晩酌の余興には十分だと、歌う彼女をじっと見つめる。
りーん、りーん。りりーん、りーん。
ちんちろ、ちんちろ、ちんちろ、ちーん。
彼女は視線に気づかない。ぽってりとした唇を少しだけ動かして、心地よさそうに酔いを誘っている。この可憐な音色を他に何の文字で表せばいいのか。この音を表す言葉は、日本でしか存在しないのだろうか。
「ねぇ、知ってる?」
自称、雑学好きの彼女が、唇に残った酒を舐めながら少し酔った顔をむけてくる。
「ううん、知らない。なに?」
何を言うつもりか知らないのに、気付けばそんな言葉で、話の先をうながしていた。
「あのね。虫の音が聞こえるのって、日本人と、あとどこかの国の人だけらしいよ」
「………ポリネシア」
「そう、それ。日本人とポリネシア人しか虫の音が聞こえないんだって」
どこかから仕入れた知識を披露して、ご満悦な彼女はうっとりと虫の鳴き声に耳を澄ませはじめた。
一年前も同じ事を言っていたよ。とは、言わない。
それ、教えたのはボクだけど。とも、言わない。
虫が嫌いな彼女の虫の歌が心地いい。
虫の音が聞こえる民族でよかったと思う。
虫が姿を見せれば鳴き声を楽しむなんて余裕はないだろうが、空気の読める虫は演奏家としてそこにいる。
りーん、りーん、りりーん、り。
「いま、鳴き声が変わったね」
「そうだね」
「あっくんも気付いたんだ。あれ、鳴きやんじゃった。どうしたんだろ?」
「相手が見つかったのかもよ?」
空になった彼女のグラスに酒を注ぎながら告げれば、彼女はひとつ、「えー」と虫ではなく、お酒が注がれる音のほうに気をとられながら頬を膨らませた。
「虫の分際で」
小さな声で呟かれた憤慨が、冗談だとわかっているから苦笑の面持ちで聞き流すしかない。
「歌うだけで相手が見つかるとかずるい」
「求愛のために歌ってるんだから、相手が見つかったほうがいいでしょ」
「それはそうだけど、ずるい」
「じゃあ、ボクが代わりに歌おうか?」
そう尋ねれば、意味を深く理解しない彼女は首を縦にふろうとして「あ、鳴いた」と、窓の外に意識を奪われる素振りをみせた。
わざとじゃないから、虫と違って人間の求愛は難しいのだと痛感する。
「んー、また、鳴きやんじゃった」
「うるさいからじゃない?」
「え、じゃあ静かにしなきゃ」
「それか、これから第二曲が始まるのかも。羽の調整も大事だろうからね」
「持ち歌が何曲もあるっていいね」
お酒を飲みながら実りのない話を続けることを彼女は特別な時間のように瞳を閉じて口角をあげる。
裏も表もない素直な発想を口にできる大人は少ない。虫の音色ひとつの話題にイヤな顔をするどころか、こうして季節を楽しむ余裕を与えてくれるところが、彼女の人となりを表しているのだろう。
「……どうりでモテるわけだ」
ぽそりと呟いて、空になったグラスに酒を注ぐ。手酌で注いだ酒をじっと眺められて、そこは「わたしが」とは言わないところが彼女の可愛さだなと笑みがこぼれた。
「あっくん、なんだか楽しそう」
「そうみえる?」
意地悪に尋ねてみたのに、彼女は素直に「うん」と首をたてに振るのだから完敗だ。
空気の読める虫がまた、鳴き始めた。
第二曲のくせに、第一曲とメロディが変わらない。夏のセミと同じ。彼らは彼らの十八番をずっと奏で続けている。
「ねぇ、ポリネシアってどんなところかな?」
唐突に問いかけられて、今度は反応が少し遅れた。見上げた彼女の横顔は、充電器にささったスマホへと手を伸ばして、何やら指をすべらせている。
知らないと答えられると見越していたのか、それとも自分の好奇心を満たすには調べたほうが充実すると思ったのか。
「……どんなところだった?」
彼女の興味を奪うポリネシアに嫉妬はしないが、調べる口実に、自分ではない誰か別の相手に文字を綴っているのであれば面白くない。
勝手に想像したくせに、彼女の意識を取り戻したくて、わざと身体を寄せる。
彼女は特に変わらない姿勢で「ポリネシアって下にあるらしいよ」とキラキラとした瞳で見上げてきた。
「………へぇ」
下、というのは、おそらく、彼女の頭のなかにある地球儀もしくは世界地図に位置するのだろう。赤道以下の意味に違いない。
地理に弱い彼女は、国内ですら上か下で都道府県を判断する。
「あっくん、行ったことある?」
「あるわけない」
「私もない」
たったそれだけの情報に満足して、彼女はスマホを置くと、また酒のグラスを手に取った。
「どうして、日本人は虫の音が聞こえるんだろうね」
「日本人は虫の音を声として聞くけど、日本以外の国の人は音として認識するから雑音として処理してしまうらしいよ」
「声と音って、そんなに違うのかなぁ?」
意識しなくても虫の声を拾ってしまう耳を持っている以上、多民族が認識する実際の聞こえ方はわからない。
例えば、川のせせらぎ、木の葉の揺らぎ、雨の打つ演奏。虫に限らず、世界は天然の音で満ちていて、それを何かのメッセージと受けとってしまう人種からすれば、彼女の質問への答えも戸惑ってしまう。
「わたしはあんまり、その辺はわかんないんだけど」
良くも悪くも、深く考えない彼女が珍しく真面目な顔になって、酒をおいて、テーブルの上に腕を組む形で身を乗り出してくる。
「日本人は、自然のなかに神様をみてきた民族だから、耳を澄ませてしまうのかも」
ドヤ顔で微笑んでくるが、彼女はどうも他人から得た情報を自分のものにしてしまう機雷があるらしい。まるで、最初から知っていましたといわんばかりの自信で、それを教えてくれた相手が誰かは、あまり覚えていないのかもしれない。
「なーんて、あっくんが教えてくれたんだけどね」
にひひ、と。またあどけない顔で彼女は笑う。
「あっくんも、わたしも、虫の声が聞こえる民族に生まれてよかったね」
「………どうして、そう思うの?」
「だって、そうじゃなきゃ。秋の演奏会に乾杯なんて出来ないじゃん」
テーブルに置かれたグラスがチンっと愛らしい音をたてる。
彼女が酒をあおっているところを見るかぎり、音をならしたのは彼女の方で、グラスはただ指先に振動を与えただけでそこにある。いや、表面の揺らぎを見る限りでは、嚥下し続けた結果も揺らいでいるのかもしれない。
りーん、りーん。りりーん、りーん。
「ちんちろ、ちんちろ、ちんちろ」「りん」「え?」
首を傾げてくる彼女の動きに合わせて、虫の音色もぴたりと止まる。
空気の読める秋の虫が、再び静かに鳴き始めたが、十八番ばかりを奏でるのはやめにして、少し違った音色を奏で始めた。
りーん、りーん、りりーん、りーん。
りりーん。
りーん、りーん、りりーん、り。
りりーん、りりーん、りーん。
りーん、りりーん、りーん、り。
「ボクと彼女」は、虫の音色で繋がっている。
番う相手を見つけた虫は、鳴くのをやめて、愛をはぐくむ時間を過ごすに違いない。
草むらの陰で、月夜の目を盗んで、二人しか知らない景色を見ているに違いない。
世界中の誰にも聞こえない羽を何度も、何度も、繰り返し震わせて。意中の相手だけに懸命に届ける声を「あいしてる」の音に変えて。
≪完≫
あとがき
日本人とポリネシア人にしか聞こえない虫の音。
世界の人は虫の音を「雑音」として認識するが、日本人は「声」として認識するそうです。他にも雨の音、小川のせせらぎ、風の音など、日本人にしか聞こえない音がある。
そういう情景が書けたらいいなと思いました。

プロムナードとは
遊歩・散歩を意味するプロムナード。「日常の中にほんの少しの非日常を」というコンセプトを元に、短く仕上げた物語たちのこと。皐月うしこオリジナルの短編小説置き場。
※文字数については各投稿サイトごとに異なる場合があります。
※読了時間については、1分あたり約750文字で計算しています。

