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短編「ヴィジタン家の甘い午後」

概要

2023年5月に刊行された星空ヱトランゼ様主催の「アンソロジー」参加作品となります。
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作品名

作品名:ヴィジタン家の甘い午後
読み:ヴぃじたんけのあまいごご
公開日:2023/05/21
ジャンル:恋愛ファンタジー
文字数:約8900字
読了時間:約12分
タグ:アフタヌーンティー/両片思い/お嬢様/執事/お菓子作り

Story本を読むのが大好きで、好奇心が旺盛なジャネットは、よく泥だらけになって帰って来た。可愛いのは見た目だけで、お転婆で、男勝りで、思ったことを口にする。そんなお嬢様が、大好きな執事のために頑張ってお菓子を作るおはなし。

本編「ヴィジタン家の甘い午後」

石積みの壁。
古いけれど可愛く、品のいい家。小さな花が植えられた鉢が格子窓から覗き、落ち着いた色の家具と暖炉が奥に見える。
塀は低く、簡易な野生動物避けにしかなっていない。随分と無用心なのか、広大な敷地面積を所有しているのか。どちらかといえば、貴族の別荘地なのだから広大な敷地を所有している方だろう。
人の目は気にならないと、家はポツンとそこにある。
どこからともなく鳥がやって来て、何かをついばんで飛んで行く。虫か、ゴミか、あるいは落ちた穀物か。人が住んでいることは、屋根から突き出た煙突から立ち込める匂いで知っているに違いない。

「また、あの犬、抜け出して」

見えないほど遠くの家に住む農業人に飼われているはずの老犬が、敷地内を散歩している。この家が縄張りの範囲内にあるのか、窓から見える巨木の根の匂いをかぐと、片足をあげて用を足していった。
あとで水をかけておこう。
そう思って、思い直した。
堂々巡りのことをしても無意味だろうと思案する。引っ越してくる前から、犬はそこにマーキングしていただろうし、巨木もそれを養分としているのかもしれない。どちらにしても考えるだけ無駄だと息を吐く。
そして、次に目をやったのはその木と窓の間。毎日雑草を抜き、除草対策を施している土がむき出しの場所。
時折、変な魔方陣がそこに描かれているが、この家に魔法使いは住んでいない。というより、この世界に魔法は存在しない。
そして、そんな落書きをするような子どももいない。
あるのは平和で豊かで、のどかな世界。
どことなく暖かな家はその象徴であり、周囲を牧草や畑に囲まれて、穏やかな晴れの昼下がりを迎えていた。

「今日はいい天気ねぇ」

なんて、家の中から呑気な独り言で見上げた窓の向こうにある空は、薄青に染まり、なんとも愛らしい雲がゆっくりと動いていく。
風でも吹いているのだろう。その証拠に、庭先に干した真っ白なシーツがハタハタと揺れていた。
「ああ……」焦げ臭い。
キッチンの窓から中央へ視線を戻したナニーは、小説を夢中で読みふける黒髪の主人をみて「まじか」と目を細めた。
静寂に満ちた、いや、鍋の中で何かが蒸発する音がしている。可哀想な愛用の鍋。多分これでサヨナラだろう。沸騰を通り越した鍋の悲鳴が聞こえてくる。が、若い主人にそれは無縁。一目で夢中とわかる顔で、輝いた瞳に映るのは、現実ではなく没頭した別の世界に違いない。
魔法のある世界であれば、ナニーも悠長に眺めていたかもしれない。指先ひとつ、呪文ひとつで解決できる程度の簡単な問題であれば、いっそのこと放置していたかもしれない。しかし、生憎と、黒い煙が立ち込め始めた光景をじっと見守る趣味は持ち合わせていなかった。
「お嬢様、ジャネットお嬢様」
何度かそう呼び掛けて、ようやく、ナニーの主人であるジャネットは、本から顔をあげて現実世界へと帰って来た。

 * * * * * *

用意するものはいつも同じ。
大切なのは分量と順番。絵を描くときに混ぜる色の量や筆運びなどで、その人らしさが出るように、お菓子作りにも作り手らしさが現れる。
だから何度も作って、食べてくれる人が私を思い出して微笑んでくれる味にしたい。

無塩バター・・・・・・・100グラム
卵白・・・・・・・・・・3個分
ハチミツ・・・・・・・・30グラム
砂糖・・・・・・・・・・70グラム
薄力粉・・・・・・・・・50グラム
アーモンドプードル・・・50グラム
ベーキングパウダー・・・5グラム

材料を用意したら、バターを鍋で溶かし、ボールに卵白から順番にベーキングパウダーまでを混ぜたものと合わせて、型に入れて、焼く。
コツは少しだけバターに色味をつけて、卵白を泡立てないこと。簡単だからこそ、こだわりはきっとそれぞれ。食べてくれる人の顔を浮かべて作れば、違いなんて出来て当然。あとは、好きな型でオーブンへ入れて二十分。
それだけで幸せの味。
卵白で作るサクッと感と、アーモンドプードルの香ばしさ。見た目もシンプルで、日持ちするからプレゼントにも最適。誰もが知るフィナンシェの出来上がり。
『いつもありがとう。きみのおかげで、ボクはこの絵を完成させることができた』『おめでとう、ピエール。だけど、絵が完成したのなら、私はもう、ここに来れないわね』『きみさえよければ、また、ボクにフィナンシェを焼いてくれないか』
ふいに手をとり、膝をついた青年は告げる。
『ボクがきみのために、きみの好きなミルクティーを淹れるから、明日も明後日もずっと、こうして二人で過ごしたい』
そうして、青年の唇はそっとお嬢様の手の甲に落ちた。
午後の紅茶はひとりでは描けない。
フィナンシェを焼いている間にミルクを沸かして、秋摘みのダージリンを入れてゆっくり煮立てる。二人の色が混ざり合うように、急いではいけない。フィナンシェが黄金色に焼き上がったら粗熱をとって、濃厚ミルクティーを添えるだけ。
そうすれば、これからもずっと完璧な二人の時間がやってくる。

 * * * * * *

「……の、はずでしょ!?」

頭の先から足の先まで粉だらけの体で、ジャネットは憤慨した。なんなら、オーブンをあけた状態で絶望も追加されている。

「どうして真っ黒なの!?」

綺麗に伸ばした黒髪をひとつに束ね、元から黒くて大きな瞳をさらに大きく見開いて、ジャネットは腰に手を当てて、フィナンシェになるはずの物体を睨んでいた。
その後ろでは何かを言いたそうで、けれど、この悲惨なお菓子作りが開始される前に「手を出したら即刻クビ」なんて釘を刺されているものだから、じっと辛抱強く耐えて成り行きを見守っているナニーがいる。
ナニーは年配の女性。母親ではない。キッチン専用のメイドといったところか。
「お嬢様……」「ナニー、黙って」「……はぁ」
額に手を当ててため息を吐く年配のメイド=ナニーは、今後の展開までも想像して、疼く頭痛を静めたのだろう。
なんとか火事にならずに済んだが、出来ることならこの状況は阻止したかった。

「きゃあ、鍋の中まで真っ黒だわ。ミルクティーはどこへいったの!?」

その叫び声を聞きながら、それはそうだろうとナニーは肩を落とす。
沸騰して何分たったと思っているのか。黒焦げの鍋はもちろん、真っ黒の異物がオーブンから現れたのは、何も予想外ではない。
ナニーはジャネットがキッチンに入ってきたときからイヤな予感がしていた。そして「お菓子を作りたいの」といわれて、その予感が的中したのだと悟った。

「ねぇ、ナニー。これが薄力粉というものかしら?」

「それは、お砂糖ですね」

「では、こっちがアーモンドプードルね」

「ベーキングパウダーでございますね」

「ハチミツは、これがいいわ。美味しいもの」

「ジャムで代用なさるので?」

「卵白はどこかしら?」

「卵を割って黄身を取り除くのをオススメします」

「卵を…………割る?」

何を探しだしたのかと思えば、肉を引き伸ばす小さな金槌を持ってきて、手に持った卵をテーブルに置き、上から金槌でぐしゃりと潰す。

「ナニー、それで黄身はどれかしら?」

「一緒に潰れていますね」

「あら、そうなの。これだけ硬い殻に守られているのに、全然ダメね」

こんな調子で始まった恐怖の料理時間なのだから、ナニーの疲労は心中お察しする。

「ところで、何をお作りに?」

結局、必要なものは揃えてもらうことに納得したのか、ナニーは一瞬にして散らかったキッチンを片付けながら、部屋のすみに佇む『お嬢様』に問いかける。

「フィナンシェ……アダンが、この本を見て食べたいって」

ポッと赤面しながら本に顔を隠す姿は愛らしい。愛らしいが、ご存じのとおり、ジャネットの料理の腕は壊滅的。硬い殻に守られている卵と同じだとナニーは心のなかで呟く。

「なるほど。いつまでにご用意しましょう?」

「ダメよ。それだけは絶対にダメ。本に載っている通りに作りたいの、自分で」

「それならアダンに直接教わればよろしいのでは?」

至極当然の質問を口にして、ジャネットへ顔をむけたナニーは「ははん」と口元がにやけるのを必死で止めた。
お菓子作りも難なくこなす有能な執事アダンが買い物へ出払った隙に、つまみ食い以外でキッチンに足を運んだことのないジャネットが「お菓子を作りたい」理由はただひとつ。
赤い顔が完全に乙女の恋を告げている。
本人はバレていないつもりだろう。というより、そもそも恋だの愛だの、わかっていないに違いない。未だに庭先に魔方陣を描いて遊ぶほど、ファンタジーの世界を信じているジャネットお嬢様は、自分の感情に疎いというのが第三者の見立てでもある。

「アダンのために作るんだから、内緒じゃないと、ダメなの」

これで無自覚とは恐れ入る。
顔に本を押し付けすぎて、何を言っているかわからないのに、しっかり聞き取れてしまった耳はどうしようもない。協力してあげたくなるのは、ジャネットという人物を小さな頃から知っているせい。

「その本を再現されるのなら、ミルクティーの茶葉も必要ですね」

「再現?」

「アダンに告白するならフィナンシェと紅茶はセットでしょうに」

「こっ、告白!?」

本から顔をあげたジャネットの声が裏返った。すでに顔は茹でダコみたいに真っ赤で、ナニーはからかいすぎたと唇をすぼめる。とはいえ、いつも冒険や魔法の出てくる本ばかりを読んでは再現したがるジャネットが、ロマンス小説を持っているのだ。「そんなんじゃないわ」と叫んでいるのを無視して、からかいたくもなる。
本のタイトルは「お嬢様と青年」
昨年流行したその本の中で、絵描きの青年に恋をしたお嬢様がフィナンシェを焼いて会いに行く。そうして距離を縮めながら、絵が完成していく。絵の完成と共に、二人は結ばれるという身分違いの物語。
その物語に出てくるフィナンシェを焼いて、意中の男性に渡すのが貴族女性の間で定番になりつつあり、男性は女性からフィナンシェを贈られた場合、紅茶を淹れて返事をするのが主流でもある。つまり、ミルクティーが出されれば「脈アリ」というわけだ。

「わかりました。では、わたくしは何をしましょう?」

「私ひとりで全部作りたいの」

「………………はい?」

「材料は全部揃えてもらっちゃったけど、ここからは一人で出来るから大丈夫。いいこと、手を出したら即刻クビよ。ナニーは、そこで見ているだけ。いいわね」

その答えを聞いて、ナニーはもう何時間も前から早々に諦めている。不器用なお嬢様がお菓子らしいものを作っているところをヒヤヒヤ、ハラハラしながら眺めるだけの苦行。ジャネットが怪我や火傷をしようものなら、使用人であるナニーが怒られる。
勘弁してくれ。そう思ったのは何度目か。
例えるなら、目は死んだ魚のようだった。

「なによ。アダンは、いつも簡単そうに作ってるじゃない」

真っ黒な異物をみて、憤慨するお嬢様の姿は愛らしい。
思わず回想するほど精神を疲弊させたナニーの愛用鍋を黒焦げにして、先ほどから熱心に本を読んでいたとしても、自分に非はないと思っている辺りが、両親や姉たちに溺愛されて育ってきたジャネットの性格を表している。

「ナニー、どうしましょう!?」

「どうしましょうねぇ」

「ああ、こんな時、私にも魔法が使えたらいいのに!!」

「使えませんものねぇ」

「本の中のお嬢様はフィナンシェを上手に焼けるのに、どうして私が焼くと黒くなるのよぉ」

黒くて大きな瞳を潤ませて、また本に目を戻す。ナニーは、ふぅっと息を吐いて可哀想な鍋を水に浸けた。

「ナニー、ごめんなさい。ナニーの鍋まで黒焦げにしちゃった」

「こうなることがわかっていながら、お嬢様にお貸ししたのでいいんですよ」

「だめよ。あ、そうだわ。今度一緒に買いに行きましょう。私がナニーにぴったりの鍋を探してプレゼントするわ」

「いいえ、それは結構です」

「どうして!?」

「胸に手を当てて考えてみてくださいな」

この暖かくも広い屋敷は、自然豊かな国の外れにあり、辺境と国境の中間地点の交易を司るヴィジタン家が所有している。
ヴィジタン家は社交界の華と称されるくらい見目麗しいのが有名で、四姉妹が揃って参加した王子の結婚式は、王子が見えないほどの人垣が作られた。ただ、四姉妹もいれば騒がしいのは必然で、突拍子もない展開が起こるのも日常茶飯事。使用人たちは何度泣いたことか。ようやく長女、次女、三女と、嫁ぎ先が決まって巣立ち、残すところは末娘のジャネットのみだが、残念なことに、強靭な姉たちにもみくちゃにされて育ったジャネットは、貴族令嬢というにはほんの少し、いや、かなり足りないものが多すぎた。
一つ目、ダンス。二つ目、音楽。
三つ目、センス。四つ目、刺繍。
こんな具合に、洗濯や料理も壊滅的。大抵は使用人が行うので問題ないが、歌もダンスもセンスもないとくれば、いくらジャネットを溺愛している両親でも将来を心配する。

「いいわ、ナニー。じゃあ、鍋のことはアダンに相談してみる」

「ええ、それなら喜んで」

「……なんだかアダンがいないと何も出来ないみたい」

くすん、と。胸に手を当てて落ち込んだジャネットは、素直で憎めない。ジャネットが赤ん坊の頃から成長を見届けてきたナニーとしては、是非とも立派な貴族女性になってもらいたかったが、ジャネットの生まれもった気質が淑女とはほど遠かったのだから仕方がない。
本を読むのが大好きで、好奇心が旺盛なジャネットは、よく泥だらけになって帰って来た。一番ひどかったのは「洞窟のなかに住むコウモリは、一番奥に眠る透明の女神を守っている」という実証検証に十歳で挑み、案の定、いつまでたっても帰ってこないので、一族総出で洞窟探検をする羽目になったことだろうか。
可愛いのは見た目だけで、お転婆で、男勝りで、思ったことを口にする。お洒落は二の次、恋よりも冒険の話に目を輝かせた。
さすがに十五件目の婚約話が破談になったところで、ヴィジタン家の当主は末娘のもらい先を憂いて、屋敷をひとつ与えた。花嫁修行よろしく、男でも呼んでパーティー三昧でもさせれば、一人ぐらいは釣れると思ったのか。いや、それはもやは期待していないのかもしれない。

「ジャネット様、ああ、こちらにおられましたか」

「あ、あああアダン!?」

悲惨なキッチンに姿を見せたのは、燕尾服を着た長身の男。うねる髪は天然らしいが、姿勢が良く、所作も上品で、丁寧なところが女性の人気を独占している。声も優しく穏やかなので、一家に一人はアダンが欲しいと、ヴィジタン家を訪れた誰もが口にした。
それはジャネットも例外ではなく、背中に黒焦げの物体を隠して、頭についた粉をパタパタとはたき、わかりやすく顔を赤に染める。

「ず、随分とはや、早かったのね」

「ええ。ジャネット様をおひとりにするのが心配で」

「アダンってば、そんな言い方だと、四六時中、私のことばかり考えているみたいに聞こえるわよ」

「考えていますよ?」

「え?」

「朝も昼も夜も、ずっと、ジャネット様のことばかり考えていますよ。ジャネット様はわたしのことなど考えてはくださらないでしょうけど」

「え、わ、わ、私だって、考えているわ。あ、アダンの、こと」

「本当に?」

端から見れば、犬も食べないこの茶番劇は、珍しくもなんともない。
ナニーが「また始まった」と腕まくりをして、キッチンの片づけを始めたことでもわかる通り、もう十年以上も毎日、こういった光景はそこかしこで拝むことが出来るものとなっている。

「口元に何かついていますよ。またつまみ食いですか?」

「違うわ。いつも食い意地はってるように言わないで」

「それは、失礼しました。では、全身粉まみれになって、何を作られていたのですか?」

「別に、何も、あ、ちょっとアダン、覗いちゃダメ。ダメだってば」

「よく見えませんね。背中に何を隠しているのです?」

「何も隠してない。何もないったら、あはは、ちょ、くすぐったい」

「早く口を割った方が身のためですよ」

「やだ、ちょっとアダン」

あはは、うふふと、まるで恋人のように楽しむ二人を横目に、ナニーは淡々と片づけをこなしていく。先に告げておくなら、二人は恋人同士ではない。
ここまでわかりやすく二人だけの世界を作っているのに、最後の一歩が縮まらないのは、早々に恋を自覚したアダンに対して、ジャネットがいつまでたっても子どもすぎたせい。片思いをこじらせたアダンと、未だに恋を自覚しないジャネットの恋物語は、ナニーがいま片付けている黒焦げのフィナンシェよりも苦いものとなっている。

「わかった、わかったから、言う。言うから」

ジャネットに学習能力はないが、有能なアダンはわざと楽しんでいるのだろう。たまたま一緒に本を読んでいたという理由だけで洞窟探検に付き合わされたときから、哀れなアダンはジャネット専用執事として運命を共にしている。
あれから、もう十年以上。有能で女性からの人気が高いアダンは、どこへ行ってもやっていけるのに、自ら進んでここにいる。
手がかかるジャネットとの出逢いを不運ではなく、幸運と思ってしまったところが哀れでしかないと、ナニーは床にばらまかれた卵の殻をかき集めていた。

「アダンってば、本当に容赦ないんだから」

「ジャネット様が秘密を持つからですよ」

「秘密なんて、何もないもの」

顔が近い。美形同士で絵になるが、それはそれで歯痒いものがある。
至近距離で見つめ合っているのに、何も起こらない空間がもどかしい。
両親がジャネットに別邸を与えたのは、いつまでたってもくっつかない二人を後押しする意味もあるに違いない。
今どき、身分違いの恋など珍しくもなんともないのに、変なところで真面目なんだからと、ナニーは息切れを起こしたジャネットを介抱するアダンの横顔を盗み見ていた。

「それで、ジャネット様は何の隠し事を?」

「これを作っていたのよ」

ふんっと、敗北に不貞腐れたジャネットが、粉まみれになった本をアダンの胸元に突き出す。一瞬、驚いたようにアダンの目が丸くなったのは気のせいじゃないだろう。しかし、すぐに状況を察したのか、世の女性が卒倒しそうな笑顔でアダンはジャネットから本を受け取った。

「なっ、なによ、その顔。別にアダンが食べたいって言ったから作ろうとしたわけじゃないわ」

ようやく自分を意識してくれるようになったジャネットの反応が嬉しくて、アダンはこの状況を楽しみたいのかもしれない。いや、絶対にそうだとナニーは確信している。

「ジャネット様。先日わたしが食べたいと口にしたフィナンシェのページだけが汚れていますが」

「だっ、だから、そっそれは、私も食べたくなったからで」

「そうなんですか?」

うんうんと必死に首を縦に振るジャネットの黒髪が上下に揺れる。
その髪を愛しそうに指先で摘まんで、キスをしそうなアダンの顔を見る余裕もないのか、あまりに焦れったさすぎて、ナニーは小麦粉の入った袋を二人の間にドンッと置いた。

「では、あとはお二人でどうぞ」

自分の仕事は済んだ。あとは二人でそのロマンス小説に出てくるフィナンシェでも仲良く作って、ティータイムでもすればいい。

「え、ナニー。どこに行くの?」

キッチンはナニーの仕事場なのに、と。ようやく意識が現実に戻ってきたジャネットの声を無視するわけにもいかない。この屋敷の持ち主はヴィジタン家で、今は末娘のジャネットがナニーの雇用主になっている。
そのため、無言の背中で出ていきたいところをグッとこらえて、ナニーはニッコリと微笑んだ。

「これまで冒険だの、探検だの、危険なことばかりに興味をもたれ、無意味に小説の世界を再現されてきましたけど、ようやく意味のある再現になって何よりです」

首をかしげるジャネットの代わりに、少し困った顔のアダンが小麦粉の袋を受け取った。

「ジャネット様は鈍すぎる」

「それを知っているなら、フィナンシェが食べたいだなんて遠回しなアプローチなんかじゃなくて、直接好きと言いなさいな」

「これは手厳しい」

「旦那様や奥様方から毎日状況を聞かれる身にもなってちょうだい」

腰に手を当てて、ナニーはアダンをじっと見上げる。隣では何もわかっていないような顔で、ずっとアダンの一挙一動が気になるジャネットが立っているため、破談は当然あり得ない。

「十五件も潰したなら、いい加減責任を取ることね」

「フィナンシェが焼けたら報告に行きますよ」

「お嬢様の腕前を知るものとしては先の長そうな話だわ」

ふうっと、大袈裟な息を吐いてナニーは頭をふる。
ヴィジタン家には「まだ当分、恋人期間を楽しみたいらしい」と告げざるを得ないだろう。

「そのときは、ミルクティーも忘れずに」

忘れるところだったとナニーはアダンに直接告げた。
ようやく会話の流れに追い付いてきたジャネットが視界の端で右往左往しているが、放置しても問題ないだろう。絵描きではないけれど、有能な青年がついている。
小説のなかのようにお菓子作りが得意ではないお嬢様と、二人きりの午後の紅茶を楽しませてあげようと、ナニーはそっとキッチンを後にした。

「本当に、いい天気だこと」

ひとり外に出て、ナニーはうーんと腕を伸ばす。
愛用の鍋は犠牲になったが、意味のある役目を果たしたのだと思えば少しは救われる。あれだけ近くにいて、手も繋げない初々しい二人のデートの口実になればいい。

「告白くらいしたかしらね」

チラッと振り返った家の壁は、彼らの様子を遮断している。その代わり、煙突から柔らかな匂いが漂い始めた。
急ぐ必要はない。時間の問題だと誰もが知っている。
周囲の焦燥をよそに、二人は仲良くフィナンシェとミルクティーを作り始めたのかもしれない。大方、アダンが作る横でジャネットが本を読んでいるだけだろうが、この二人はたぶんそれでいい。
同じ空間にいるだけで、彼らは幸せなのだ。
それこそ小説の中に出てくるお嬢様と青年のように。明日も明後日もずっと、この小さな屋敷を愛の巣にして、二人仲良く一緒の時間を刻んでいく。
しばらくすれば、甘い匂いが漂って、揃ってナニーを呼びに来ることだろう。それまでに干したシーツが乾けばいいと、ナニーはひとり、揺れる真白に足をむけた。

《完》

あとがき

今回は、「こじらせ男」と「恋に疎いお嬢様」のファンタジーとなりました。
洋菓子と紅茶のセットで物語を書くと聞いたときから、お菓子作りの話にしようと決めていましたが、お菓子作りが下手なお嬢様になるとは予想していませんでした。
二人の関係を見守るナニーと一緒に、一喜一憂してもらえたら嬉しいです。
フィナンシェは私の大好きな洋菓子です。紅茶はダージリンが好き。
食べることが大好きなので、とてもワクワクして妄想がはかどりました。
温かな余韻に浸れる甘い物語を目指しましたが、いかがでしたでしょうか。
普段の作品傾向と異なるところはありますが、どうか楽しんでもらえますように。

プロムナードとは

遊歩・散歩を意味するプロムナード。「日常の中にほんの少しの非日常を」というコンセプトを元に、短く仕上げた物語たちのこと。皐月うしこオリジナルの短編小説置き場。

※文字数については各投稿サイトごとに異なる場合があります。
※読了時間については、1分あたり約750文字で計算しています。